心を尽くして神様をたたえて

ウラジオストクの教会

ロシア正教の教会

ウラジオストクではロシア正教の教会や礼拝堂が40軒ほどあります。一番盛大なのは至聖生神女庇護教会となります。一番最初の庇護教会は1902年に数世代の市民が埋葬された市内墓地の敷地内に建設されました。5棟の庇護教会は当初700人を収容出来ました。ソビエト政権が樹立した1923年には墓地が閉鎖され、1934年にはここで市営文化休息公園の建設が開始されました。1年後、庇護教会が爆破されました。

爆破された教会のレンガは教師大学の建設に利用され、鐘楼に導く5メートルの階段は熱供給発電所に移され、ボイラー室で使われるようになりました。庇護教会の土台にはレーニンの銅像が設置されました。

教会を再建するには1991年に寄付金の募集がされました。しかし、その建設は様々な理由によって延期され、結局2004年9月に着工しました。2007年3月には鐘10個が神聖化され、4月3日に鐘楼に設置されました。最大の鐘の重量は1300キロとなっています。新築の教会は1000人を収容し、当初の5棟教会の外観を可能な限り復元しています。教会の面積は600平方メートルで、その高さは十字を含めて40メートルとなっています。

生神女カトリック教会

ウラジオストクでは19世紀末-20世紀初頭に多くのポーランド人が住んでいました。1890年には沿海地方南部に住む2610人がポーランド語を母語と呼び、そのうち954人がウラジオストクに居住していました。1885年からウラジオストクで小さい木造のカトリック寺院が建設されていましたが、1909年には大型カトリック教会の建設計画が始まりました。ネオゴシック様式の教会は、1921年に建築家アンドレイ・グヴォズディエフスキーの設計で建てられ、現在に至るまでウラジオストクの美しい装飾品であり、多文化都市としての一角を体現しています。

教会は1935年までウラジオストクのカトリック教徒の拠り所となっていましたが、その後閉鎖されました。その敷地内には沿海地方の国家文書保管所が置かれました。教会の内装は変えられ、ステンドグラスなどの装飾要素が除かれました。この、元教会の建物は1993年にやっとウラジオストクのカトリック教区に譲渡されることになり、至聖生神女祭の1994年1月1日に教会の鍵をようやく受け取りました。教会の復元工事は2010年までかかりました。その一番の魅力であるパイプオルガンは、教会の空間に独特の雰囲気を与えています。

聖パーヴェル・ルーテル教会

ゴシック建築を見事に体現しているこの教会は、1907年から1909年までドイツの建築家ゲオルグ・ユングヘンデルの設計で造られました。ウラジオストクのルーテル会は会員が多く、影響力を持っていました。

その会員のなかには将校、大手企業家や役人などがおり、ウラジオストクの歴史と密接な繋がりがありました。ゲオルグ・ユングヘンデルはこの教会の設計にあたって、ヨーロッパ北部の後期ゴシック建築の典型的な様式を取り入れました。教会は高い場所に建てられ、プーシキンスカヤ通りの建築の「王冠」となりました。ドイツから持ち込まれたレンガで造られた教会の建設には、「Kunst & Albers」商会が主に資金を出しました。

1935年に教会は閉鎖されました。その後、ここは時代により、太平洋艦隊下士官会館、ゴーリキー映画館、太平洋艦隊歴史博物館、と変遷しました。教会の入り口の側には武器や軍装備品が展示され、子供達が良く大砲の上に跨って遊んでいました。プーシキンスカヤ通り14番地に所在するこの建物が、ルーテル教会に無償で永久譲渡されたのは、1997年9月16日のことでした。同年、ドイツはここを「海外のドイツ文化遺産」と指定しました。現在、聖パーヴェル教会はウラジオストクの文化中心地の一つとなっています。礼拝以外にもオルガンの演奏会や慈善行事が行われています。

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