過去への散歩

ウラジオストクの歴史的な建物

旧市街ウラジオストク建築の特徴としては、スタイルの多様性が挙げられます。キリスト正教の小礼拝堂がプロテスタント教会と近隣し、ある石造の建物がロマン様式の騎士城に似ていて、ドイツ風のゴシックはユニークなロシア風のバロック様式で建設された商人の家と側に並び、古典主義の要素を有する屋敷は東洋建築の邸宅の反対側に立っています。いくつかのスタイルを合わせる建築物もあります。それは全てウラジオストク駅からプーシキン劇場までの散歩ルートにあります。

ウラジオストク鉄道駅

ウラジオストクに電車で到着した旅行客にとって、一番最初に受ける印象深い建物は恐らく鉄道駅になります。それは沿海首都の最古、また最も美しい建物の一つであり、古代ロシア様式で作られています。ウラジオストク駅は1891年にニコライ皇太子の直接の命令で鉄道と同時に創設されました。当初の石造建築物は簡単で素朴でした。1912年にはモスクワでヤロスラフスキー駅が出来た以降、モスクワから発車する鉄道終点では、古典ロシア様式での駅を建設することが決定されました。それはまさにロシアの統一性や完全性を象徴しています。このアイデアがモスクワの建築家のシェフテル氏によって実現されました。また、プラットホームにある、シベリア鉄道の終点を象徴する「9288キロ」印のkmポストを是非探してみて下さい。

ブリナー邸宅

駅からアレウツカヤ通りを中心の方面へ歩いて行けば、明るい3階建てのビルが視野に入ります。それは20世紀初頭にドイツ人の建築家、ゲオルグ・ユングヘンデル氏の設計で建設されたブリンナー邸宅です。スイスのジュネーブ生まれのユリウス・ブリナー氏が最初日本に移民してから、19世紀の70年代にウラジオストクへ引越しし、ロシア国籍を取得した後、市内で最も影響力のある裕福な企業家となりました。1920年にはウラジオストクで彼の孫のユリー・ブリナーが誕生しました。彼の両親はまもなく移民したので、ユルが海外で育ち、米国でユル・ブリンナーの名で華やかな俳優となりました。名字の英語発音を保持するために、真ん中に“n”を加えました。2012年には彼が生まれた邸宅の側の公園で彼を記念する銅像が建立されました。その開会式には国際映画祭「パシフィック・メリディアン」の頻繁な来客者であるユル・ブリンナーの息子、ロックさんが出席していました。1957年にはユル・ブリンナーが「王様と私」の主役でアカデミー主演男優賞を受賞しました。

「グレイ・ホース」(灰色の馬)

アレウツカヤ通りを先に中心地の方面へ歩けば、スターリン帝国様式で建設された17番地と19番地の2軒の建物が目立ちます。この2軒とも「灰色の馬」という一言の通称で呼ばれています。1930年には市内で3-4階建てより高層ビルはありませんでしたが、その建物だけが7-8階建てでした。各部屋の天井高さの3.5メートルを考慮すると、この2軒こそが正にウラジオストクの摩天楼だったとも言えます。

17番の物件の屋根は、国民と赤軍の団結を象徴するコルホーズ女性、炭鉱作業員、赤軍兵士や飛行士の銅像で装飾されています。そのなかの1軒は極東鉄道職員のため、もう1軒は内務人民委員部(NKVD)の職員や将校、警備隊や警察のために建設されました。

アルセーニエフ博物館

スヴェトランスカヤ通りとアレウツカヤ通りの交差点西側にはアルセーニエフ博物館の本館があります。1904年にメシュコフ建築家の設計で造られ、極東大手商社「Churin & Kasyanov」の株主の一人であるワシリー・バービンツェフが所有していました。革命後には当館で横浜正金銀行、理髪店、シャシルィーク店、州の財政局、漁業海洋学大学などが順番に入居していました。それらをみれば、現在の博物館が建物の出世としてのピークと言えるでしょう。

本館の外観だけではなく、その展示品もかなり興味深いものとなっています。内装は最近改装され、古い展示の仕方が現代的になりました。博物館の考え方も変わってきたといえます。あまり興味が沸かない記念物の収集場より積極的な研究の場となってきました。ここは時間を過ごし、見学する時間を割く価値があります。

「ベルサイユ」ホテル

アルセーニエフ博物館本館に沿って海の方へ進めば、スヴェトランスカヤ通りの入り口には現代様式で建築された「ベルサイユ」ホテルの建物が見られます。1909年にイヴァン・メシュコフ建築家によって建てられ、二等商人のラドムィシェリスキー氏の所有物でした。20世紀初頭の時点では、ウラジオストク市民が誇りにする、とても居心地の良いホテルでした。その1階には店舗、素敵な喫茶店やレストランが営業していました。それぞれの時代にはコルチャーク海軍中将、ソマセット・モーム、ベルトルト・ブレヒト、ホー・チ・ミンなどがこのホテルで宿泊していました。ユリアン・セミョーのフ作家の小説主人公のイサーエフ諜報員(別称:シュチールリッツ)はウラジオストクの「ベルサイユ」ホテルで将来の奥さん、アレクサンドラと出会います。

ウラジオストクの百貨店

これはスヴェトランスカヤ通りだけではなく、ウラジオストク全体で一番綺麗な建物のひとつであると言えます。その建設は1882年から1884年までの間に「Kunst&Albers」商社の依頼を受けてドイツ人のゲオルグ・ユングヘンデル建築家の設計で行われていました。55トン総重量の124個の鉄桁、25トンの床カラー・タイル、2000枚の薄鋼板やセメントなどの建設材は全てヨーロッパから船で運ばれました。ウラジオストク史上初の石造りの店舗が1884年4月1日にオープンしました。20世紀初頭には当初のビルがリニューアルされ、現在見られる外観となりました。装備のレベルが自主電力、スチーム暖房、電話、エレベーターなどを含めて当時のウラジオストク市にとっては驚くほど贅沢でした。

モダン様式の外観も特殊レンガ、古代ドイツ叙事文学の登場人物を描く浮き彫り、海洋商業を象徴するアンカーを握る天使と、古代商人の守護神のマーキュリーの杖を握る天使の彫像などを含めて、想像もつかないほど豪華でした。営業歴史の多大でドラマチックな「Kunst&Albers」商社は1930年に廃業され、当館は1931年から百貨店としての営業を開始しました。

2009年にはウラジオストク百貨店とウッスーリ映画館を繋ぐ地下道で、壁に埋め込んだ金庫2つが発見されました。金庫は未だに壊さずに開けることが出来ません。金庫の中身もまた依然として不明ままとなっています。

プーシキン劇場

プーシキン劇場の建物は1907-1908年に都市長官会の融資で建設されました。革命以前にはそれが若い都市、ウラジオストクの多様な文化中心として機能していました。ウラジオストク設立者の協賛金で構築された、その建物の運命は数度変わっていきました。現在のプーシキン劇場は極東連邦大学に所属してあります。

プーシキン劇場の舞台上では地元の俳優、プロの劇団、ツアーで来ている劇団や当時の有名人などが上演してきました。1927年には有名な旅行者のロアール・アムンセンが舞台から自分の旅行について語っていました。同じステージではイサドラ・ダンカン及び彼女の養子のイルマが踊り、レオニード・ウチョーソフも歌っていました。

コルチャーク中将、「アムール波」を作曲した作曲家のマックス・キュース氏は頻繁に劇場を訪れていました。1971年にはプーシキン劇場のホールで、多くの人にとって特別記念となったウラジーミル・ヴィソツキーの公演が行われました。

ウラジオストクへようこそ

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