1876年、ウラジオストクに日本貿易事務所館が開設されました。キタイスカヤ通りとペキンスカヤ通りの角に建てられた木造の建築物で、建設を請け負ったのは、1868年に長崎からウラジオストクに来て、建設請負業やレンガの生産に携わった有田伊之助です。1907年、貿易事務館となり、1909年には総領事館に昇格しました。
1914年に古い木造の建物はとり壊され、同年6月4日には、建築家三橋四郎の手により同じ場所に2階立建て石造りのギリシャ式の建物の建設が始まりました。その間、総領事館はバービンツェフ商人の館(現在のアルセーニエフ博物館)に置かれました。新しい総領事館の建物は1916年完成しました。当時この建物の中央のひさしには、ギリシャの勝利の女神二ケが両端にグリフォンを従えて飾られていました。また正面玄関の両脇には一回り大きいグリフォンが置かれました。現在この建物は沿海地方の裁判所となっています。
住所:Okeansky prospect, 7
松田銀行部は1907年の日露戦争後、長崎市の十八銀行の支店として開かれ、十八銀行の外国支店網に加わりました。ルーブルから円への換金、満州産大豆の輸出で多大な利益を上げました。1916年松田銀行部は朝鮮銀行に段階的に吸収され、1919年には朝鮮銀行浦潮斯徳支店となりました。現在この建物は電話通信会社の顧客サービスセンターとなっています。
住所:Okeansky prospect, 24
松田銀行部を段階的に吸収し1919年に名前を変えた朝鮮銀行浦潮斯徳支店は、1922年10月まで日本の浦潮派遣軍との間で積極的な業務を行いました。日本軍がウラジオストクから撤退した後も、朝鮮銀行浦潮斯徳支店は、ダリトルグ(極東銀行及び極東貿易会社)との関係を維持しました。日ソ漁業協定締結後、同支店は東京支店を通じて日本の漁業者によるオホーツク海での操業のために業務を行い、1930年には朝鮮銀行全体の10%の利益を生むまでになりました。しかし、その年の暮れにソビエト政権が監査を行ったところ、密貿易及び違法為替操作への関与が発覚したとして閉鎖されました。
住所:Okeansky prospect, 9/11
堀江直造は22歳のとき(1892年)、日用雑貨果物輸出入業の西澤商店の社員としてウラジオストクに渡り、1899年に店の経営者となりました。日露戦争後ウラジオストクへ戻り、青森からの果物の売買などに携わり、1909年の自由貿易港廃止の後は、缶詰や素麺工場を開きました。日本軍のシベリア出兵の期間(1918年‐1922年)日本軍に協力するために日本商人が作った軍事用達社の社長となりました。また1919年にはセミョーノフ将軍とも商売をしたシベリア商事の社長にもなりました。堀江氏は日本人社会の中での信用が高く、日本人会会頭など様々な要職に選ばれていたのです。
現在この建物は極東連邦大学(極東国立工科大学)の所有になります。なお、妹尾商店は精米業を、太田商店は雑貨商を営んでいました。
住所:Aleutskaya ulitsa, 39
1917年、横浜正金銀行が満州で日本政府から与えられていた国庫金取扱業務は、朝鮮銀行に委譲されました。1918年横浜正金銀行は、北満州からの農産物を大連経由ではなく東清鉄道とウスリー鉄道を使って輸出するために、ウラジオストクに支店を開設しました。1922年‐1924年、ウラジオストク経由の輸出は大連経由を大幅に上回りました。しかし、日本軍の撤退を受け、横浜正金銀行は1923年、輸出融資業務を停止する決定をしました。1924年3月、ウラジオストク支店は閉鎖され、その業務はハルビン支店へ移管されました。現在この建物は国立アルセーニエフ博物館となっています。
住所:Svetlanskaya ulitsa, 20
1896年着工、1899年竣工。ロシア極東・東シベリアで最初の高等教育機関である東洋学院の開校式は、1899年10月21日に盛大に挙行されました。同学院では必修科目の中国語と英語のほか、日本語、朝鮮語、満州語、モンゴル語が教授されました。ロシアにおける実践的日本研究の創始者であるスパルヴィンが1900年-1925年に同学院で(1920年からは東洋学院をベースに作られた国立極東大学で)教鞭をとりました。日本人教師には前田清次、和露辞典で有名な松田衛らがいました。現在この建物は、極東連邦大学(極東国立工科大学)となっています。
住所:Pushkinskaya ulitsa, 10
資料提供:在ウラジオストク日本国総領事館のご厚意によって