文: リャチェンコ・オレーシャ、ネリュビン・セルゲイ

ウラジオストクは、港街でもあり、海軍港でもある特別な街です。船乗りの街、漁師の街、探検者の街でもあります。20世紀の初頭には、「極東のニース」とも言われていました。20世紀の後半には「第二のサンフランシスコ」と呼ばれました。要塞の街であり、東に日本、西に中国、南には朝鮮を隣国とし文明の交差する自由都市でもあります。ドイツ人、デンマーク人、イギリス人が建設したロシアの都市である一方、アジアにあるユーラシアの街でもあります。ウラジオストクは海参崴湾がロシア領になる4か月前に創設されました。1860年7月2日にはコマロフ准尉の一隊がここに見張り場を置き、同年の11月2日になってようやくニコライ・イグナチェフ伯爵が北京条約に署名し、この条約によりロシア帝国はこの一帯の正式の統治者となりました。その跡は、スヴェトランスカヤ、アレウツカヤ、カーテルナヤ、ザヴォイコ総督、コルニロフ、アルセニェフ、デジネフ、コマロフ准尉といった通りの名前や、シュコタ半島、エゲルシェルド岬などの地名に見ることができ、これらの名称は船や、海軍軍人や開拓者との深いつながりがあり、ロシア人がアジア太平洋地域へと進出していった歴史を反映しているのです。

その少し前の1854年、徳川幕府はペリー提督の圧力に迫られて200年にわたった鎖国を破り、老中の阿部正弘を代表として開国条約に署名するとともに国民の国外旅行を許すに至りました。その1年後、ロシアと日本の間で初の国際条約(下田条約または日ロ友好通商条約)が締結され、この条約によりロシア船は下田、函館、長崎への寄港が許可されました。その影響から1858年には函館にロシア領事館第1号が開設され、二国間の積極的な通商友好関係が展開されるようになりました。

ウラジオストクを初めて訪れた日本人の記録は、1862年になります。その中心は長崎出身の人々で、ここからはじめての商業上のかかわりができるようになり、日本人の出稼ぎや、運送人や密輸人も登場するようになりました。日本からの移民の数も増えました。クリル諸島とサハリン島を1875年に交換してからは、ウラジオストクに日本の貿易事務所が開設されました。ウラジオストクに住む日本人が商売をやりやすいよう条件を整えたり、また日本人旅行者の登録、日本人が関係する輸出入の記録の提出もその仕事でした。

1866年にはウラジオストクに西本願寺の初の海外分院が開かれ、故郷を遠く離れても仏教を信じる日本人移民の拠り所となりました。

1891年、将来の皇帝となるニコライ皇太子は、日本訪問を終えサンクトペテルブルクに戻る途上、ウラジオストクに立ち寄りました。皇太子は東方諸国を訪問しており、日本に先立ってインド、シンガポール、タイ、バタビア(ジャワ島)、中国を歴訪していました。皇太子の訪問に備えてアドミラル埠頭には、ウラジオストクの主要な建築モニュメントとなる、皇太子並木(ニコライ凱旋門)が作られました。

90年代の始めには、長崎-ウラジオストク航路に加え、神戸からの定期便も出るようになりました。1902年12月時点でのウラジオストク在住日本人の数は2996人を達成していました。ウラジオストクに持ち込まれる商品の13%が日本からのものでした。日本の商店の数も54店舗までになっていました。店舗の名前はたいてい、持ち主の苗字がついていました。第一ギルドに所属していた「杉浦商店」、「日本郵船会社」、「日本九州茶業株式会社」、「徳永商店」といった商社、また長崎、愛知、茨城、新潟、滋賀の各県出身の持ち主が第2級商店を経営していました。「双日」の元となる「鈴木商店」と「岩井商店」も、1877年と1896年にそれぞれウラジオストクで設立され、この2社が後に合併して「日商岩井」(現在の「双日」)となりました。

ウラジオストク日本人の活動範囲はとても広く、日本人街は自治・独立を保っていました。米を脱穀し小売する店もあれば、酒、しょうゆ、炭、果物、漬物、日用品、肥料の小売業、質屋もありました。小林・近藤の2名が経営するミネラルウォーターの工場もありました。北野竹次郎のしょうゆ工場ではしょうゆの製造・販売を行っていました。ポロガヤ通りには麺の工場・販売所がありました。「宮川工場」では家庭用家具を作っていました。「浜田鉄工業」は色々な工具の製造販売、船や鉄道の修理を行っていました。セミョーノフスカヤ通り19番には日本人学校があり、移民の子供たちが日本語を学んでいました。同じセミョーノフスカヤ通りには「扶桑社」(近藤熊雄が経営)、「木藤」(木藤義介が経営)といった日本人経営のホテルがありました。日本人街には宝石屋、時計屋、クリーニング屋、ペキンスカヤ通りとセミョーノフスカヤ通りには銭湯もありました。日本人の乳母や小間使いはロシア人よりも信頼でき、身なりもきちんとしていると、日本人女性は理想的な使用人とされていました。世紀が変わるころには、日本人の医者、仕立屋、茶屋、売春宿などができており、日本人街は最盛期を迎えます。日本人はイチゴジャムの作り方をロシア人に学び、ひき肉の作り方を覚えて「メンチカツ」を作っていました。日本に帰ってからもウラジオストク住民でつくる「ウラジオストク会」があり、ウラジオストクの暮らしをそのまま日本で続けてもいました。

ウラジオストクでの生活や事務上の問題(パスポートの発行、居住権、警察、郵便規則運用管理、争議の解決、墓地の手入れ、火葬など)は、「ウラジオストク居留民会」がこれを担当し、日本人はこの会への入会が義務付けられていました。

日露戦争の当時ウラジオストクでは、戦闘に直接かかわった旅順とは違い、後方地の役割を果たしました。上村提督の指揮する日本の5船からなる艦隊がウスリー湾の方面からウラジオストクを砲撃しました。攻撃による被害は少なかったのですが、攻撃が予想外だったこととウスリー湾沿岸に装備されていた大砲の飛行距離が十分ではなかったため、反撃を与えることはかないませんでした。日本人住民は戦争状態が継続している間日本に避難し、ポーツマス条約締結後の1906年になってようやく戻ることができました。

1907年にはウラジオストクに日本の領事館が開設され、1909年には総領事館のステータスを得るに至りました。1904年、ウラジオストクは「自由都市」の地位を回復し、商業はますます活発になりました。「杉浦商店」、「日本郵船」支社、松田銀行支店、「海送業佐藤商店」(海運業)など日本企業は戦前の状態までにすぐに回復し、日本人の経営する写真館(山口、内藤、島崎、平野、法下栄松の各写真館)は地元住民にも愛されました。

日本政府は第1次世界大戦でロシアを軍事支援し、ロシア・ドイツ戦線に著名な外科医上野医師以下14名の日本赤十字軍を送り、軍服や銃弾、爆薬、弾、「有坂」手りゅう弾、医薬品、日用品などでロシア軍を支援しました。

1918-1922年のシベリア出兵期には、ウラジオストク在住日本人の民間商業活動はほとんど絶たれてしまい、軍需の「シベリア商事」と「軍事用達社」が残るのみとなりました。日本から出兵してきた軍や軍事関係者の需要を満たすため、また輸出入の取扱い、極東からの金銀持ち出しを目的とし、横浜正金銀行の支店が内戦期に開設され、スヴェトランスカヤ通り20番地にオフィスを構えたほか、日本朝鮮銀行の支店もオケアンスキー大通り9/11番地にありました。

ウラジオストク在住日本人に内戦に関する情報を提供するため、1917年にはウラジオストクで日本語新聞「浦塩日報」が出版されるようになり、1922年まで活動しました。1920年からはロシア語版「浦塩日報」も出ていました。

1922年5月ごろにはウラジオストク在住日本人をめぐる状況は悪化し、ロシアの内政への日本による軍事干渉はビジネスに悪影響となり、ロシア市場とのつながりを絶つまでになってしまいました。多くの日本人が第2の故郷となった当地を涙ながらに離れ、新しい生活を始めることを余儀なくされました。「ウラジオストクのように稼ぎやすく、暮らしやすい場所はそうあるものではない」という「浦塩日報」編集長夫人の言葉が残っています。

10月25日にはウラジオストクにも赤軍が進出してきました。病気や戦闘で亡くなった日本人兵士の遺体が、シベリアの様々な場所に葬られました。日本軍の撤退の際には、彼らの遺体は改めて掘り出され、ウラジオストク日本人街に預けられました。

日本とソ連との主要な外交関係を定めた北京条約の締結後、両国間の文化交流が発展し、ソ連の芸術家の展覧会が東京や大阪で開催されたほか、バイオリニストのコンサートも開かれました。また歌舞伎の初の海外公演はソ連で行われ(1928年7月末)、役者たちはウラジオストクで1週間を過ごしたのちモスクワに向けて出発しました。

それ以降、私有財産の廃止、満州事変、産業化の方針、市民個人の自由の制限などといった事態で日ソ関係は悪化しました。1937年4月13日、ウラジオ本願寺は閉鎖され、ニコラエフスクの戦いや内戦時に亡くなった日本人兵士および94柱の日本人移民の遺骨、仏教用具などが船舶「シベリア丸」で日本への帰路につきました。1946年5月、粛清の影響下ウラジオストク日本総領事館も閉鎖され、日本の外交代表部が1967年以降にナホトカ市で機能していました。ウラジオストクは1951年から92年まで閉鎖都市とされ、太平洋艦隊の拠点地であったため、外国人の訪問は禁止されていました。ただ、その間も国際交流がまったくなかったというわけではありません。日本人旅行客を乗せたいわゆる「友情の船」はナホトカ港に寄港していましたし、国レベルで文化、スポーツ、教育分野での交流団が相互に派遣されていました。1993年4月に外国人に門戸が解放されてからは、総領事館はウラジオストクに移り、現在に至るまで領事活動(ビザの発給、日本人市民の支援など)や文化・経済イベント(日本映画祭、日本文化のマスタークラスや講演会など)、教育支援(日本へのロシア人留学生派遣、日本語能力試験、スピーチコンテストなど)、軍事交流(原子力潜水艦の共同処理事業、共同訓練)を続けています。日本センターでは希望する市民向けに日本語講座のほか、「カイゼン」システムに関する講座を設けています。

両国間の外交上の歴史は単純なものではありませんでしたが、ウラジオストクと日本の友好関係は継続しており、それは一般市民レベルでの交流があってこそのものと言えるでしょう。様々な時期に、二葉亭四迷、松井須磨子、与謝野晶子、豊住米子、草彅剛(「ホテル・ヴィーナス」撮影)、岸光明、入野義郎(ウラジーミル)、栗原小巻(「パシフィック・メリディアン」映画祭)といった日本の著名人がウラジオストクを訪れ、都市の歴史に貢献してきました。

ウラジオストクに残る日本人の痕跡に触れた皆さまが、私たちの美しくロマンティックな都市とのささやかな交流関係を築いていかれることを願ってやみません。